めちゃくちゃDCの映画を見に行っているわけじゃないのだけど、ダークナイトのジョーカーはやっぱり好きで、そんなジョーカーの生まれたきっかけが見れるという作品ということでやってきたわけなのだ。
そんなこの作品、個人的にはこれまでのジョーカーが出てくる作品の中でも一番心に響いた作品となった。それはこの作品が「人に笑われた人間の物語」だから。
映画的な劇的な話の展開といったことはないんだけど淡々と進む中で少しずつ響く部分があって、最後の展開まで見て胸がいっぱいになっているそんな映画でした。
それじゃあどういうところが響いたのか書いていこう。まぁむろんネタバレをしていきながら話していくことになる。
障害と笑い
この映画の主人公アーサーフレックは、脳の障害で普段の生活で笑うところでもないところで笑い声が出てしまいます。その影響で、彼は社会に溶け込むことができず、いろんな人から笑われているし、手を差し伸べてくれる人はいない。社会福祉のカウンセラーや医薬品の提供も打ち切られてしまう。
そうした状況の中でも彼はコメディアンになろうという夢を持つ。その象徴となっているのは大物コメディアンマレーのテレビ番組への出演。そんな中その番組の中で、完全に笑われる立場としてアーサーはネタにされてしまう。
このへんのところが本当に辛くて、というか全然ジョーカーの体験とは関係ないはずの過去の自分の蓋をしておきたい嫌な体験があふれ出してきて正直軽く吐き気を覚えていた。自分がどんくさくてどれだけ馬鹿にされてきたかってのを思い出してしまったし、普通に数日前にもいろいろやらかしていろんな人に笑われたしね。
こう小さい時から就活の時にも感じた「社会」ってものの中で上手く生きていけないんじゃないかっていう漠然と感覚(人々の中で共通する常識みたいな感じがわかんない感じ)みたいなものを強めに呼び起こされてしまった。
でもそれ以上に主人公のアーサーは誰からも救いの手がなく、原因も障害だったりするのでさらに辛くなってくる。
ジョーカーになる瞬間
追い詰められた主人公が解放される瞬間がある。それは電車で絡んできた人間を銃で殺した瞬間だ。その行動が原因となってどんどんとイリーガルな言動へとつながっていく。そうしてジョーカーが形成されていくわけだ。
社会の中で自分の存在を確かめることや、個人的な鬱屈の解放を行うことが犯罪につながっていてそれがヴィランとして確立させていく。特にマレーをテレビ番組上で殺したときはそのシンボリック性からジョーカーとして成立した感があった。
そしてここまでの成り立ちをみるとどうしてもヴィランにならざるを得ないなといった感じはもってしまう。どこからも手を差し伸べられず、社会福祉から得ていた薬の影響か生み出されていた妄想による現実逃避も補助を打ち切られたことによりなくなり現実が迫ってくる。そのどうしようもなさがとても辛く、だからこそ彼が解放されたところで視聴者の私も安堵した気持ちになる。ただそのシーンも安堵した部分が大きくすっきりとした気持ちにはならない。
ジョーカーを見て
さて、これからは個人的な話になってしますのだけど、やはりこの映画をみて最初の掴みの部分で自分の思い出したくない記憶を掘り起こしたのが大きかった。その影響でそのあとアーサーの言動をずっとひやひやしながら見ることになる。
そうして見終わった後は、どうしてもジョーカーみたいに誰からも見放されてなくて良かったなと。仲良くしてくれる友人が少しでもいてくれて本当に良かったなぁと思ってしまったわけである。おこがましくも比較しちゃっている。アーサーのことなんて全然分かっちゃいないってのに。
ただ、この映画をみて少し楽になったのは、自分のことを論ってる人からは距離を取れるんだったらちゃんと取ろうと思えたことだ。結構我慢してお付き合いしてる人間たちがいたのだけど、まぁもうあの人たちとは会わなくていいかなと思えた。別に復讐しに行ったりとかはしないけど。
あともう一つ、ほかの人がこの映画について「元からヤバイ人が悪い人になる話」ってだけ言ってて、いやそういう風にまとめてしまうのはどうなんだろうなって思いながら、こう思考がぐるぐる回っている。なんというか簡単にまとめることの暴力性というかそういうことには自覚的であるべきだと思うので。
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